「高原を行く−モンゴル−」

藤井 昇


 ラオスから戻った私はモンゴルへ向かった。傷心祖国へ戻った朝青龍を慰めたくて・・・。


 時おり日照雨が降る9月のモンゴル高原。国道をウランバートルから東へ向かう。


 青く、高く、果てしなく広がる大空に、蒼き狼チンギスハーンは自由を信じたという。


 境目の無い大地に生まれたモンゴル相撲に土俵は無い。枠に縛られず、おおらかに、ひたむきに、ただ強くあること。


 中東部の町ウンドゥルハーンを過ぎると起伏も消え大地はさらに平坦になる。何もない。草原と大空が広がり、そのあいだを風が流れる。こういう中を何時間も走っていると、リングワンダリングのような錯覚に陥る。

 緑の地平線ぐるり一周パノラマ動画。
 画像ではお伝えできないのが匂い。ちょうどいま、淡黄色の花をつけたエーデルワイスの一種「朝霧草」が大地を埋め尽くしていて、流れる風はハーブの香りで満たされていた。

ほとんど木の生えぬ黄緑色の高原はアンデスのアルティプラーノに似て異なるのが標高と緯度。モンゴル高原は標高1000〜1500mと(アンデスより)低いから空気が濃く、草も柔らかくてその上を車で自在に走り回れる。そして北緯50度ちかいサハリンなみの高緯度にあるから、チングルマが平地に咲く。

荒涼とした砂漠へ踏み出すのは勇気がいるが、緑豊かな草原の彼方の地平線をじっと見つめていると、その果てに何かが自分を待っているような、そこへ行きたい、草原の中へ踏み出したい衝動が湧く。チンギスハーンが、インカ皇帝ワイナカパックが帝国を拡大したのは「緑の地平線の挑発」にとり憑かれたからに違いない。


 せっかく平らなんだから「もうちょっとまっすぐ走れないのかよ」と(日本人としては)言いたくなる。で、そう言ったら「最初に通ったやつがきっとウォッカ飲んで酔っ払ってたんだよ」との答。


 鉄道網は未発達。


 モンゴル高原には古くからシャーマニズムやアニミズム信仰が存在していた。これはオボー(oboo)と呼ばれる、大地や山の精霊を祀る石積み。峠や山頂にある。


 モンゴル人はオボーに差し掛かると必ず立ち止まり石を拾って積み、その周りを時計回り(=太陽が回る方向)に三度まわりながら願をかける。青い布は大空、自由への旗印。


 北部山地では樹木が増え、シベリアのタイガへと連なる。9月には白樺と唐松が色づき始め、秋は足早に過ぎゆき、11月には長く厳しい冬が始まる。


 終日走り続けてたどり着いた目的地にテントを張る。




 こういう平原では15分くらい歩かないと身を隠せないから、朝のキジ撃ちは余裕を持って。






 人工灯りの全く無い高原の空は陽が沈むとまもなく満天の星となる。(私の持ち合わせの小型デジカメでは何も写らなかった。大口径レンズ必携。)

 目印の乏しい平原の位置確認に我々はGPSが欠かせないが、モンゴル人運転手は地図も持たずにハンドルをきる。微妙な地形の変化や太陽・月・星の位置、風などを読みながら遊牧民は大草原を移動する・・・とは聞いていたが、じっさいに日没後の闇の草原を1時間以上走り続けて目的地に正確にたどり着いたのには驚いた。「俺はアタマの中にGPSがあるのさ」と運転手は自慢し、別の男が「星の位置で方角を知るのだよ」と教えてくれた。それにしても闇の草原の道もないルートをヘッドライトだけで50kmもよく辿れるものだと感心し、「ここへ来たことがあるのか?」と聞くと「ああ、2年前に一度来た」と語った。



 草原の出会い


 隣のゲルまで数十キロ以上離れた遊牧生活で若い男女はどうやって連れ合いをみつけるのか、聞いてみた。馴れ初めの一般的なケースは犬の散歩ならぬ「家畜散歩」。ヒツジの群れを引きつれた年頃の二人が草原で出会い、目が合い、胸がときめくと、ヒツジを放っといて気持ちを確かめ合う。それからしばらく男が女のゲルへ通い、親を説得し同意を得ると男は新しいゲルを準備して女を待つ。そして女が新しい家具を携えて男のゲルに嫁ぎ、その日から数日間、親戚縁者をゲルに順番に招きながら宴が続く・・・というのは昔の話で、最近では学校で知り合い、ホテルのレストランで披露宴をすますことが多いそうだ。



 【草原の動物たち】


 豊かな草は様々な昆虫、動物たちを育くむ。遊牧民たちは家畜に食べさせる滋養のある草を求めて移動する。日々の営みが自然と一体であることにおいて、草原の遊牧民もインドシナの森の人々と変わりは無い。


 タルバガン。草原に穴を掘って棲む、プレーリードッグの仲間。美味でヘルシーな肉と高級毛皮で知られる。


 父が獲ってきたタラバガンを母が捌く。


 母の手元を、ワクワクしながら子供が見つめる。


 だって「久々の肉のごちそう」だものね。しばらくチーズと馬乳しか食べてないから。

 タルバガンの脂肪は調理後に冷めても(冬山のペミカンのラードように)白く固まらず美味しく食べられるので、遊牧民たちの携行・保存食として重宝がられてきた。薬草を多く食べるその肉には整腸効果があり消化も良い。毛皮はロシアで帽子やコートに使われ高値で取引される。このため乱獲で減少してしまい、現在は捕獲が制限されている。



 <草原の しじまを破る 大イビキ>


 朝起きてテントから顔を出すと「藤井のイビキでタルバガンがみんな逃げてしまったではないか」とからかわれた。山岳部時代の私はテントの中で寝息も立てず死んだように静かに眠る上品な若者であった。しかし就職して体重が10`近く増えたころからイビキが始まり、ストレス多い東京本社へ異動すると歯ギシリも加わり、40歳を過ぎ酒も入ると往復イビキに無呼吸も混ざって、朝起きると隣の妻の姿が消えていることが多くなった(このごろは寝る前に消える)。


 家畜を乗せたトラックがやってきた。


 ???


 駱駝であった。モンゴルの駱駝はニ瘤である(中東の駱駝は一瘤でもっと足が長く背も高い)。


 怒ると唾を吐きかけるのはリャマと同じ(特に気が短い若い駱駝があぶない)。


 健康な駱駝のコブはそそり立ち、栄養が不足するとコブも痩せて垂れ、元気になると再びムクムクと立ちあがる、コブは健康のバロメーター。駱駝は家畜の中で最も長生きで寿命は30歳くらい。

駱駝の歩き方(動画)。

 ゲルの解体移動に駱駝を使うとラクだ。


 ウシもいた。


 国道を占拠しくつろぐ牛。モンゴル語での牛の鳴き声は「ゥンボー!」 日本の「モー」より感じが出る。クラクションを鳴らしても「ゥンボー!」と鳴くだけで一向にどかぬ。


 ヤギ。


 質の良い草を求めて300km離れたところからやってきたという羊追いの男。子供の頃から乗馬に慣れた彼らの手綱さばきは、素人目にもサマになりすぎて格好良い。


 馬肉も食う。黄色い脂肪と赤身が馬肉の特徴。タルバガン同様に冷めても脂質が蝋化しないので携行食に向く。見た目も食感も鴨肉に似ているから「馬ナベ」にしたらきっとウマいはず。


 草原のキャンプでモンゴル人コックが作ってくれた太巻き寿司。海苔は韓国産青海苔、具は馬肉とピクルスとニンジン。味よりも、その心遣いが気に入った。


 モンゴル犬。四つ目が特徴。交雑により純血種が減っている。モンゴル語での犬の吼え方は「ハウ!ハウ!」だそうで、「犬はワン・ワンなんてぜったい言ってないわよぉ!」と日本留学経験あるモンゴル人通訳は譲らない。

 果てしなく見える草原にも、養える命には限りがある。自然に生える草だけを食べさせる「放牧」は広大なスペースを必要とする、じつは非効率な牧畜方法であり、広大なモンゴル高原をもってしても増やせる家畜の量はあと2〜3割だという。このまま人口が増加すれば早々に自給すらできなくなる。現に牛肉はすでに中国からの輸入に依存している。近いうちにこの遊牧文化も衰退し、柵に囲まれ畑に植えられた栄養たっぷりの牧草を食む「牧場」に取って代わるのだろう。



 【モンゴルのバカ(馬鹿)は賢くて上品】


 「家畜の中でいちばん賢いのは馬だ」と彼らは言う。「音楽をかけると馬は曲のリズムに合わせ首を振り足で地面を叩く、曲のテンポを速めると馬も速める。犬は音楽を聞かせてもボケッとしているから馬のほうが賢い」とのこと。馬の次に賢いのが犬で、さらにヤギ、ラクダと続き、いちばんアホなのが牛とロバとヒツジ。そして家畜ではないが狐は「狡賢」く、鹿は「高貴・上品」、狼は「強く神聖」な動物としてモンゴルの昔話の中には登場する。ところでモンゴルでは猫を見かけない。寒いからだけではない。モンゴル人は猫を嫌う、あの陰湿な性格と目つきがイヤだという。



 【モンゴルの肉が不味い理由】


 はっきり書けぬガイドブックには「モンゴル料理はシンプルな味付けが多い」とある(料理ベタの彼女を思いやるなら「シンプルな味だね」と褒めるべし)が、ここの料理がウマくないのは事実であるから(おそらくアジアでいちばんマズい)隠す必要は無い、その理由を知るべし。家畜は食べてしまうと元が無くなるから、遊牧民たちは「乳」を主食とし、肉は繁殖・搾乳を終えた更年期の成獣しか食べないから硬くて臭い、いわば「老化」と「加齢臭」なのである。



 【馬乳酒はウマい】


 草原の中の一本道を走行中に「おい、馬乳酒飲むか?」と聞かれ私が「飲む飲む!」と言ったら運転手はハンドルを切り、道から外れて草原に入ると、馬のいるゲルへと向かった。

緑の大地に降り立ったUFOのようにポツリ、ポツリと白いゲルが立つ。ゲルはモンゴル語で「家」という意味だからこれをテントと呼ぶのは失礼。値段は一軒(張り?)1000〜20000ドルもする。ゲルの外側のフェルトは1〜2年ごとに張り替えるが木の骨組みは10年以上持つ。ゲルの内部は絨毯が敷かれ土足のままあがる。ここは「地面床」の文化である。乾燥し冬に凍てつく大地の暮らしは床を浮かせないほうが良い。


 今回馬乳酒を馳走になったゲル。右の派手な色の玄関のゲルは披露宴を終えたばかりの新婚さん宅。


 ゲルの天井。壁に窓はない、明かりは天窓と入り口から。


 馬乳酒をドンブリで飲む。これで一人分、約1リットル。

その動画。
 乳からの酒は馬と駱駝からしか採れないそうだ。特に馬乳はビタミン類が多くて体に良い。これだけで必要な栄養が全てまかなえる「完全食」。酸味があり臭いも強烈だが、飲んでみたら意外と飲めた。アルコール分は3%くらいだから深酔いはしない。新鮮な馬乳酒は発酵の炭酸ガスでブクブクと泡立っているので、これをペットボトルに封じて冷やし少し砂糖を加えるとカルピスソーダみたいでなかなかイケる。(でも、ウマいと思って飲むとやっぱりマズいから、最初はあまり期待しないで飲むこと)

馬の搾乳風景(動画)。馬は7〜9月が繁殖期で草の豊かなこの時期に最も美味い馬乳酒ができる。
厳しい冬に向かう前の今が「馬肥ゆる秋」なのである。搾乳は1〜2時間おきに行いその搾りたての新鮮な乳を一日中かき混ぜて酒を作るから、メシを調理してる暇がないほど超多忙で、この時期の馬飼主たちは馬乳酒とチーズだけ食べて暮らすという。

 飲んで食ったゲルの中でモンゴル人の一人が床に横になりうたた寝を始めた。



 【ゲルの習わし「一見さんいらっしゃい」】


 招かれるままにゲルの中で馬乳酒飲んで食べてくつろぎ、搾乳まで見せてもらい、そのまま(金も払わず)立ち去ろうとするので私が「えっ、ここは店じゃなかったのか?」と聞くと「普通の遊牧民の家だよ、馬がいたから馬乳酒もあるハズと思って入ったのさ。」 「じゃぁお前の知り合いか?」 「いんや、今日初めて会った」とのこと。来る者は誰でもゲルに招き入れて歓待するのが遊牧民の古くからの習わしで、見知らぬ訪問者は「目出度いこと」であり、客の側が金を払ったりむやみに恐縮するのは「失礼にあたる」という。放浪を生業とし厳しい冬を生き抜くためにお互いが気兼ねなく助け合ってきたのだろう。


 ゲルのそばの井戸から水をポリタンクに汲む。黙って入り勝手に持ってゆく。映画「アラビアのローレンス」は他人の井戸水を勝手に飲んだ男が射殺される冒頭シーンで始まるが、同じ遊牧民でもずいぶん違うものだ。「奪う」のがアラビア・ベドウィンの文化なら、「分かち合う」のがモンゴルの遊牧民文化といえる。


 これは国道沿いにある観光客向けの化粧ゲル。そばにはトイレ、シャワーの木造建屋もある。モンゴルへ来る観光客の8割が日本人、その多くが若い女性たちで、7〜8月のシーズンには毎日大勢がバスで乗り付けるそうだ。

 喜びも悲しみも苦労も収穫もすべてを分かち合うのがゲル生活。強いものが勝つのが自然の掟だが、それだけじゃ動物と変わらぬ。アラブ・アングロ社会の「自分だけが得」では不幸な者の数のほうが多くなる。豊かな格差社会よりも「みんなで貧乏」な幸せのほうがアジア・モンゴロイドには馴染むのではないか。「分かち合い」こそ人間と動物を分かつ所以である。(・・・最近のウランバートルでは酔っ払い家庭内暴力オヤジが少なくないらしい。)




 【引き篭もってられぬゲル生活】


 ゲルでは仕切りの無い一部屋に家族全員が暮らす。プライバシーもクソもない(クソは外で済ます)。 冬の外気温はマイナス30℃くらいになるから、夫婦喧嘩しても親子喧嘩しても逃げも隠れもできない閉ざされた空間。モンゴル人たちと暫く一緒に過ごしてみて、彼らから受ける、人としての暖かさ、懐の深さのような印象は、このとことん人間密着型の共同生活で培われてきたのではないか。

今もモンゴル国民の約3割が暮らすゲルはモンゴルの誇る伝統文化であり、家族の絆を深めるゲル生活のすばらしさを誰もが口にする。しかし1980年頃からウランバートルなどの都市部に大きな下駄箱のような社会主義型アパートがいくつも建てられた。個室でプライバシーを仕切られ蛇口をひねればお湯の出る便利なアパート生活に馴染んだ若者たちはなかなかゲルに戻れないという。



 【ゲル生活は起業家を育む】


 1990年代の社会・経済変革の混沌の中に多くの若手起業家が生まれた。今も「いずれ独立して社長になりたい」と答える20歳代前半の若いモンゴル人連中が多いのに驚く。大草原の孤立した遊牧生活では仕事の全てを自分で仕切らねばならない、いくら待っても指示はこない、頼れるのは自分だけ。そういう独往自立生活が若者の旺盛な起業精神へ繋がるのではないか。若干22歳の白鳳もモンゴル初のゴルフ場建設計画を進めているという。



 【ノモンハンの記憶】


 日本人とモンゴル人が(相撲の土俵以外で)戦ったのは、13世紀の元寇と20世紀のノモンハン事件(モンゴルでは「ハルハ河"戦争"」)の二度だけである。元寇ではモンゴルが日本を攻め、ノモンハンでは日本がモンゴルを攻めた。どちらの戦いにも勝者は無い、仕掛けたほうが痛手を負って退き、その後の国の運命に大きな影響を与えた。

ノモンハン戦ではソ連軍の近代的重火器の前に日本軍のチャチな戦車はブリキの玩具ように破壊され、悪しき精神主義に盲従した日本軍が大損害を被った、関東軍の暴走の大失態・・・というのが司馬遼太郎含めた定説だったが、実はソ連軍も日本以上の損害を被っていたことが旧ソ連の内部資料から最近判明した。しかし最終的に「日本軍が勝てなかった」ことに変わりは無い。そしてこれを機に日本は北進をあきらめ南進へ転換、対中戦争の泥沼化と大東亜・対米戦へ向かうことになる。


 モンゴル東部の中国国境付近。遠方に見える山稜は中国東北地方(旧満州領)。


 最近まで草原の中に放置してあった旧日本軍戦車の残骸を、中国人業者が「鉄クズ」として持ち去ってしまい、今はただ茫漠とした草地が広がる。


 チョイバルサン飛行場のソ連軍駐留跡。旧ソ体制が崩壊した1990年の秋、わずか二日のうちに撤収し建物はもぬけの殻になった。カモフラージュの盛り土で覆われた格納庫がそのまま残る。


 モンゴル東部の草原にはナベヅルとマナヅルがいる。秋が深まると南へ飛び立ち日本で冬を越す。


 中国国境に近い町チョイバルサン。

 第2次大戦後、旧満州国の日本人捕虜たちはソ連軍によってシベリアやモンゴルへ強制収用され多くの命が失われていった。凍土の大地で冬を迎える日本人たちは祖国へ向かって飛び立つ鳥たちをどのような思いで眺めたのだろう。

『ハルハ河水清く 静かに流れゆき/鳥は空よぎり自由に飛び交うよ/南の故郷へ何故に帰れぬ/荒れた野良には虚しく風が立つ』・・・てか? まるきりアイロニー。



 【ウランバートル】


 モンゴルの首都ウランバートル。人口約100万人、全国民260万人の1/4がここに住む。社会主義から資本主義への急速な体制変化は社会・経済の混乱と格差社会を生み、その歪みがマンホールチルドレンに現れた(「天才柳沢教授の生活」第124話参照)。


 ウランバートル市の南にあるザイサンの丘から市街を望む。


 丘の頂にあるソ連軍を称えるモニュメント。モザイク壁画にはソ連がナチスドイツの旗を踏み折り、「ソ連兵士の記憶は太陽のように永遠であり台地の炎のように神聖である」と記されている。


 国会議事堂前の広場にあるスフパートル像。1921年のモンゴル革命の指導者の一人。「モンゴル人民がひとつの方向、一つの意志にまとまれば何一つとして不可能はない」と彼は語った。


 1990年の冬、この広場は民主化を求める若者たちで埋め尽くされ「無血革命」が成立、スフバートルの革命体制は成立から70年後、彼の言葉どおりに、モンゴル人民の意志により崩壊した。


 チベット仏教寺院ガンダン寺。スターリン時代に破壊されたが、民主化後に再建。

ガンダン寺の内部、高さ25mの観音像。

 ゴビ砂漠あたりは世界有数の恐竜化石産地である。自然史博物館のタルボサウルスの完全骨格標本。1億年前のモンゴル平原の覇者。


 都市部の結婚披露宴はホテルの食堂を使うことが多くなった。



 【チンギスハーン】


 モンゴル人にとっては建国の英雄であるが、ロシア・東欧人には「タタールの軛(くびき)」の元凶であり、その名をソ連圏社会主義時代には公然と口にすることもできなかった。当時の学校教育のモンゴル史は1921年の社会主義革命から始まり、それ以前の歴史は教えることを禁止された。しかしソ連圏からの独立・自由化を機にチンギスハーンの名誉も復活、今の英雄視ぶりは過剰なくらいである。昨年は「チンギスハーン建国800年」を国を挙げて祝った。歴史は「作られる」ものであり、「消される」ものなのである。歴史認識問題とは「誰のための歴史か」という立ち位置の問題。


 モンゴルへ玄関口チンギス・ハーン(Chinggis Khaan←決して"ジンギスカン"とは発音しない)空港。


 お札にも。


 ホテルの壁掛けも。


 チンギスハーンが生まれた東モンゴル高原の地(北緯47度48分21秒、東経107度31分54秒)に昨年から建設が進むチンギスハーン像、高さ20m。来年完成予定。建設費用は一般国民からの投資で賄われている。

 「義経が生きて大陸へ渡りチンギスハーンになった」という日本の「義経伝説」をモンゴル人もいちおう知っているが「・・・日本国内の兄弟喧嘩だろ、我らが世界のチンギスと一緒にしないでね」という目線が返ってくるから、話さなくてよい。

え?ところで朝青龍はどうなった? お〜っ、忘れとった。似たような顔にはいっぱい出会ったが。



 【相撲】


 いま日本の大相撲には34人ものモンゴル人がいて、場所中はモンゴル国内の4局のTVで生中継される。各地方からモンゴル相撲やレスリング経験のある選りすぐりの少年たちを日本へ送り込んでいて、それぞれの郷土力士を応援している。いまやモンゴル相撲より日本の大相撲のほうが人気が高く、ゲルの連中も馬の乳搾りさぼって太陽電池のTVで相撲中継に見入っている。




 日本ですっかり有名になったサッカー場。


 ピッチでは件の少年サッカー選手たちがいつもと変わらぬ練習をしていた。



 <余談>
チンギスが現れる少し前のこと、モンゴル相撲で女の力士が優勝してしまった。これにショックを受けた、時のハーンたちは女の相撲を禁止した。モンゴル相撲で上着の布面を背中に回し胸元を露わにするのは、女でないことを示すためだという。



 【初めての韓国】


 入国日程が「朝青龍事件」や「六者協議」と重なり直行便からはじき出された私はソウル経由大韓航空便に乗った。


 なんとなくコカコーラとわかる。


 ペプシ・・・? し、失礼



 【モンゴルから東アジアを見る】


 昨年の秋頃から、中国〜モンゴル経由の脱北者が増えている。疲れきりやせ細った朝鮮人たちが、内モンゴル自治区との国境検問までたどり着き、そこからウランバートルの韓国大使館に助けを求め、韓国政府はビザを発給しいったんモンゴルへ入国させてから韓国へ移送している。自らも(内モンゴルと)民族分割状態のモンゴルは対南北対等の立場から、6者協議作業部会開催地となった。

モンゴルは「ロシアと中国にサンドイッチ状態の内陸国」という地理的事情から、ロシア・中国の支配を受け続けてきた。辛亥革命を機に清朝支配からの民族独立運動が起こるが中ロの陰謀により内モンゴル・外モンゴル分断の憂き目に会う。二世紀にわたる清朝支配による弾圧から中国への反感は今も強いが、市場経済化のなかで中国への経済依存はますます強まっている。

共産革命後のモンゴルはしばらくロシア寄り・ソ連邦の一共和国としての政治スタンスをとったが、ロシアが好きだったわけではない。モンゴル文字を奪いキリル文字を強制し宗教(モンゴルはチベット仏教)を弾圧・破壊したスターリン時代のソ連への反感が残り、ある関係者は「ソ連が我々に与えたものはウォッカの飲み方だけだ」と吐き棄てるように言った。しかし、モンゴルの親ソ路線を強固にしたのはノモンハン事件であるから日本も無関係ではない。

そして、過去はさておき、今の彼らはとにかく親日的である。蒙古斑を持ち言語もメンタリティーも宗教観(チベット仏教+アニミズム)も日本人に近く、かつ親日感情の強いモンゴルは、日本の重要なパートナーとなる可能性を秘めているのだが、・・・その先のイメージが沸いてこない。

<新たなる民族浄化>
現在、若者を中心とする2万人のモンゴル人の男が韓国へ労働者として出稼ぎに出ている。そして、まるでそれを補填するかのように、中国の男たち2万人がモンゴル・ウランバートルの工事現場へ送り込まれている。このため結婚相手の不足する年頃のモンゴル女性と中国人出稼ぎ労働者との婚姻が急増、結婚した中国人男はモンゴル国籍を取得する。

日本の4倍の国土面積をもち、中国からそのまま続く広大で豊かな牧草地を持つモンゴルは、人口の膨らみすぎた中国にとって魅力的な「人口の捌け口」である。チベットの民族浄化では人民軍兵士による「強制種付け」が行われてきたが、国際世論の反発を避けたい中国はこのモンゴル方式を考え出し、それを可能にするモンゴル、韓国、中国間の密約がある・・・とも聞いた。

帰国の翌日、日本のTVニュースで「日中国交正常化35周年記念」なる楊貴妃の舞台劇を紹介していた。森山良子の歌う「中国賛歌」を「小泉靖国参拝vs中国の反日デモ」のシーンをダブらせて流す・・・こういう、相変わらずの紋切り視点で「歌に国境はありませんから・・・」と臭いセリフをのたまう我が祖国の歴史・現状認識を見ると、なんだかなぁ。

更新:2007/Oct/02 20:47