「通りすがりの伊太利」

藤井 昇




 【休日のローマへ】


 山岳総会がちょうど始まった頃、私は成田へ向かう電車の中にいた。今回向かうのは地中海東部の、俗に言う「中欧」地域である。日本からの直行便はないから行きはローマ経由で入った。


 ウラル山脈を越える。春分を過ぎ柔らかい陽光に包まれているが、


 大地はまだ凍てついたまま。


 どこを切りとっても、


 絵になる街。


 ゴルジュもある。


 見上げる空は青く、


 足元には犬もいる。


 19世紀に発掘が始まり今なお調査が進む古代ローマ遺跡、フォロ・ロマーノ。


 ここはローマ。


 過去の栄華と現代の混沌が、


 交差点でも交錯する、


 名にし負う歴史の街ローマは、観光地である。これはロシア人の団体観光客。


 学校の生徒たちの社会学習も盛んだが、


 興味ないとつまんないよね(おじさんも昔そうだった)。


 コロッセオ付近の大通りの壁に誇らしげに掲げてあるが、昭和17年頃の「大日本帝国陸海軍勢力範囲図」みたいなもんだな、こりゃ。


 地中海沿岸に豊富に産する軟らかく加工しやすいコキナ石灰岩で作られた無機質な石の文化が、


 人の有機的営みを今に伝えてきた。


 石の文化の石畳は風情あるけど、


 掃除が大変だ。


 ローマのエスカレータは関西風右立ちだが、荷物置くから通れない。


 空港からローマ市内へはレオナルド急行で40分。


 デカプリオではなく、こっちのほうね。


 車内、座席の一部は透明なガラスで仕切られたコンパートメント。


 腹が減ったので適当に見つけた路上レストランに入り、メニューの値段みて一番安いのを注文したら具が何も載ってない、ケチャップかけたナンみたいなピザが出てきたが、それなりにうまかった.


 オリーブは地中海が原産地、たっぷり満たされたオリーブオイルの中を野菜が泳ぐ。


 今日は日曜日、明日から仕事、もう深夜12時なのに会話は尽きぬ・・・


 みなさんよう喋りなはるな、ほんまに.



 【週末のミラノへ】


 帰りはミラノ経由で日本へ戻った。トランジットに6時間も空くのでちょいと市内まで足をのばした。


 ミラノ中心部ドゥオーモ広場.。


 ミラノもローマやフィレンツェに劣るが観光地なのである。


 イタリア北部に位置するミラノはアルプスまで50kmくらいの距離だが、日差しは強く暑いから、


 アイスクリームがうまい。


 14世紀末から500年の歳月をかけて造られた世界最大のゴチック建築ドゥオーモ。いま30年がかりで改修工事中。


 アルプス造山帯に近いから外装は全て大理石である。


 左手のでっぱりの中の階段を上ると屋上に出られる。


 階段を1ピッチ40mで屋外へ出る。ここから屋根伝いに70mトラバースするが、磨耗した大理石は濡れるとフリクションが効かない。


 14世紀当時としては、目もくらむ高さだったろう。


 取り付きから約10分で尾根の頂部に着く。


 ミラノ市内が一望できる。アルプスは見えなかった。かのドロミテ針峰群はこの教会から200km北東にある。


 一気に登るとけっこうなアルバイトだ。


 この次は6ユーロ払ってエレベーター使うか、尖塔群みたいに痩せてから登ろうね。


 てっぺんから見下ろす隣の博物館前の広場に、ガリバーの白骨みたいなのがあるので行ってみた。


 前衛芸術家の作品だった。私は芸術は古臭いほうが好きだ。


 ミラノ市内から空港へは高速バスが便利だが、


 ずっと携帯かけながらの片手運転はやめてほしい。


 市内移動は地下鉄が便利だが、


 途中から乗ってきたおばさん、私の(短い)足の上に買い物袋を置くのはやめてほしい。


 イタリアの警官の制服は男女同じである。


 ミラノも右寄り立ち、でした。



 【日本のローマへ】


 ミラノから日本へ戻った翌々日、所用で奈良盆地を訪れた。私は大阪同様に奈良もこれが初めてである。緑豊かな飛鳥路の里山は、見てきたばかりのバルカンの趣に似て、あちこちに残る遺跡が現代人の居住面積を圧迫しているのはローマにも似る。


 土のコブはたいてい遺跡なのだそうな。


 レンゲ畑。



 【紫岳再読】


 日本へ戻ると山本良三さんから「紫岳12号」が自宅に届いていた。上述のローマ滞在中に「残部あるけど要るか?」とのメールを受け「送ってください」とお願いしていたものである。

CD版は以前ペルー駐在中に入手していたが、やはり製本されたものの方が読みやすい。その分厚さにたじろいだがそのまま明け方まで読みふけった。この中の「1980年度春山合宿『後立山連峰全山縦走』」の記録はペルー駐在中に私が纏めたもので、書き終えた日に私は次のメモを記した。

 《 22 年前、 22 歳の記憶 (2003.5.27記)》

 山岳部創立70周年記念特別会誌「紫岳12号」を出す話が昨年秋に持ち上がった。内容は、昭和初期の旧制静高山岳部創設期のころの話や海外遠征記録を中心に構成するが、その一部に1980年度の春山の記録も掲載することになり、当事者だった私に原稿の依頼がきた。先日一時帰国したとき、卒業以来開けていなかった古い段ボールの中から関係資料を抜き出してペルーへ持ってきて、週末の合間に鉱山宿舎の自分の部屋で夜なべ仕事でまとめ始めた。

西田さんが当時の部内報告書(写し)を送ってくれた。山行中に撮影した8ミリフィルムがまだ残っているらしい。新しい写真も出てきた。草稿をメールで送り内容をチェックしてもらう。当時のメンバーの居場所は現在バラバラだが、このITの時代、地球の裏側にいても衛星経由で電子信号を飛び交わしながら文章の校正が進む。アンデス山中の宿舎のベッドの上に日本の北アルプスの地図を広げ、茶色に変色した当時の計画書や部内報告書(藁半紙にガリ版刷り!)を読みかえすと、22年前の15日間の出来事が時間刻みで克明に思い出される。

雪稜を越える風の咆哮、舞い立つ雪煙、アイゼンの歯が岩に軋む音、ピッケルを握る指の感触、黒部渓谷側から吹き上げて左から右へ猛スピードで流れる雪の粒子、凍てつくザイル、吐く息の白さ、その息で睫毛が凍り目が開かぬ、風雪のテントの中の仲間たちの息づかい・・・、あのときの感覚がそのまま蘇ってくる。

この全山縦走を実施するまでの一年間には、部員減少問題も含めいろいろあり、随分と辛くてイヤな思いもした。資料を読み返すうちにその懊悩まで湧きおこる、まるで、22年前のオマルのフタをあけたら湯気立つウンチがそのまま残っていたように。

若い頃に、たかが2週間ほど雪山の稜線を歩いただけのこと。そのあともっと大きな人生の転機がいくつもあったのに、なぜこのときの些事がさほどに残るのか。過去をあまり深くほじくるのも良し悪し。人生はその節目ごとに、蓋をしたパンドラの箱を残しながら過ぎてゆくものなのかもしれない。

締切りをすこし延ばしてもらい昨日やっと脱稿、図面も添えて最終稿を東京と静岡の編集本部へさきほどメールで送った。あとの細かいアレンジは日本で伊藤さんたちがやってくれることになっている。

それにしても、こんなに近く感じる22年前。その短い22年間がもう一度過ぎれば、66歳になるのだと思うと、ゾッとする。

(了)

 そう記してさらに4年が経つ。当時掲載したくて見つからなかった写真をここに添付する(複写したもの)。杓子トラバースから見た白馬岳、日付は1981年3月12日、カメラはオリンパスペン、撮影者は23歳の伊藤英利、シルエットは22歳の藤井昇である。



 バルカンにはいくつもの民族が住むと前稿で書いたが、その民族間の言語や血統の違いは、日本国内の地域差とたいして変わらない。彼らを民族に分かつ重要な要素のひとつが、歴史的経緯の違いだという。支配者の違い、属する国の違いにより宗教と歴史が異なってしまい、似たような言語・遺伝子を持ちながら同族意識が持てないのである。人は今現在おかれている水平的状態だけでなく、縦方向に延びる時間軸をもっている。過去において同じ時間と精神を共有した記憶は、民族アイデンティティーの箍となりうる。人は流れゆく時間の中で、他人とともに自分自身も変化しながら今を生きているのだろう。

今回の紫岳の送付に際して山本さんから「山の記録だけを掲載するのが山岳部の部報ではない、そこに集いし人たちの、人生を伝えるのも、部報ならでは役割だ」との言葉を頂いた。私が学生時代に日本を飛び出しNZへ向かったのも濱地、大田、横井さんたちの海外遠征、安藤さん山口さんの青年協力隊の話に触発され「オレも日本の外を見てみたい」という気持ちがあったからだ。我々山岳部員には多かれ少なかれ「見知らぬ世界への憧れ」のようなものが根っこにあり、その欲望を満たす媒体として山があった(ある)のではないか。いつの時代でも数十人に一人くらいそういう不満・不適応分子は居るもので、山岳部はそういう若者たちの受け皿であったし、今後もあってほしい。

・・・と書いたところで、これからまた中国へ向かう。今年三度目の訪中であり、未知への憧れでも不満解消でもなく、シゴトである。(2007年5月9日未明 さいたま市浦和区の自宅にて)

更新:2007/May/09 00:44